文章力養成コーチ ゆか先生の「書きまくるトレーニング」 徒然なるまま かきまくれっ!

国語について、そして書くことについて、つづっています。

これ以上「読解」は要らない

2018年10月8日

なぜ私の教材に読解問題はないのか


日本の国語教育は長年、分野に分かれて指導研究が進んできました。主に「漢字」「知識」「読解」です。保護者の方は、このテスト形式で育った方が多いと思います。

大問1が漢字の読み書きの問題、大問2が文法などの知識問題、大問3が論説文の読解問題、大問4が小説などの読解問題という形式です。

これは、大学入試がそうなっているからで、高校は大学に入るためにあるような日本の教育システムでは高校の授業内容もそれに準じます。そして、高校入試もそうなっているので、中学での勉強もそうなりますし、中学受験もそうなっているので、小学校でもそうなります。ましてや、塾などは完全にその形態です。

では、「漢字」と「知識」と「読解」を足せば、それは「国語力」になるのでしょうか? 近年慌てて「コミュニケーション」と「ディベート」を付け加えましたが、国語科以外の総合学習などで取り組んでいるかと思います。

 

死なない力


私は「国語力」とは、「死なないようにする為」に付ける能力だと思っています。

本で先人の知識を得るために「文字が読める」こと
人に自分の思いや考えを相手に伝えるために「言葉を使いこなせる」こと

直接生死とは関係ないように思いますか?
私はこの二つの力があれば、たいていの環境でも生きていけると思うんですね。この思いは、私の発信するものすべてに漂うものですので、回数をかけて受け取ってくださればと思います。

 

これ以上読解はいらない


さて、私がなぜ教材に「読解」を入れなかったかというと、重箱の隅を楊枝でほじくるような読解方法は学校や塾で指導してくださるので、私のところではこれ以上しなくてよいと判断したからです。そして、代わりに「作文」を入れ、そこをメインにしました。

作文を書くためには、思考ツールとして言語を使う必要があります。

言語には表現ツールとしての役割と、思考ツールとしての役割があり、今の教育では後者が足りないと感じています。

例えば、障害者に対しての気持ちを書かせたとします。

子どもたちは「かわいそう」というような言語を使用して気持ちを表現します。なぜそのような簡単な言葉しか出てこないかというと、普段の思考をそこで終わりにしているからなんですね。
そこで、私はもっともっとと言って促します。その尊い気持ちは尊重しながら、本当にそんな薄っぺらい言葉で考えているのかということ自体を考えさせるのです。

そうすると、今まで「かわいそう」しか言わなかった子どもたちが

「たすけてあげたい」
「むしろぼくより立派だ」
「ぼくは今まで差別をしていたかもしれない」
「どうしてあげたらいいのか知りたい」

というように、子どもによって表現が分岐していきます。

それは、思考を一段階、二段階と深めることで、自分の本心に気付き、それを私に伝えるために言語化しようと、ありとあらゆる知識を使い表現しようとし始めるからです。

その時に役立つのが「語彙」です。多ければ多いほど、微妙な気持ちの違いを表現できます。
それができないと100通りの表現ができることを「やばい」の一言で済ませるらくちんコースを取ることになります。

その語彙力をつけるのに「漢字」と「知識」は必要です。直接語彙量にかかわるということもありますが、「漢字」と「知識(文法)」を知っていると、本が読めるようになるからです。読書は語彙を爆発的に増やす宝箱です。

5年生コース、6年生コースと、どんどん難しい意見文に挑戦するようになります。意見文は正解などありません。だからどんな意見もOKなのです。ただし、それが言葉で伝わらないとOKは出せません。入試問題に関係なく、言葉で伝える作業は、一生続きます。それは人間だからです。

私の生い立ちが書かれた記事を読んだ人は知っていると思いますが、私には壮絶ないじめ体験があります。私が死なないで済んだのは、言葉を武器にしたからです。記事では「頭がよかった」と表現していますが(笑)

言葉の発達が遅く、3年間も言語の教室に通った私が、今、言葉の大切さを子どもたちに教えられる立場にいるという不思議。今は説得力の足しになっているでしょうか。

本当の「国語力」をつけるために、個別の指導が必要になる「作文」を、やりすぎの「読解」の代わりに入れました。

私の講座に「読解」がないのはそういうわけなのです。

 

 
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